「浦河べてるの家」って何だろう?2

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「悩む」のではなくて「考え苦悩し、そして研究する」という立ち位置は当事者研究の基本だが、それは2001年に当事者研究が始まるずっと前から、向谷地生良さんの生き方でもあった。それは中学校1年生の時、担任教師の体罰と叱責、それに体育の授業での転倒事故が重なり長期の自宅療養を余儀なくされ、その危機を生き抜く為に向谷地生良さんが身に付けた態度である。現代人は様々な事柄を一般化・科学化しようとする。そんな中で現在の当事者研究は個別的で非科学的である。当事者研究のこれからの方向性は現代的に一般化・科学化へと向かうものである。非科学的であるが故の「扱いにくさ」と「持ちやすさ」「かかえ易さ」を抱えた当事者研究はまだまだ確立される途上にある取り組みである。これからの発展を期待するのと同時に、それがある中学校1年生の少年が危機を生き抜く為に身に付けた態度から出来てきた人間味のある取り組みである事を心に留めておきたい。当事者研究に於いて統合失調症をどう考えるかという事について考える。当事者研究は統合失調症を問題として捉えて、それに対して解決法を探すという取り組みではない。我々の立つ立場は統合失調症はすでに1つの解決であるという立場である。どんな問題に対してこの様な統合失調症という解決が提示されているのかという、問題の探索、定式化をする。しかし統合失調症は1つの解決の形であり、探し出すのは問題の方であるという理論は普通承諾出来ない。という事は当事者研究に於いては「問題と解決」という2項対立構造がそもそも危うい。そこで解決は問題の一つの様態とする。ベン図を用いると、問題という大きな円の中に解決という小さな円が入っているという形である。従って統合失調症とは問題でありかつ解決である。当事者研究は問題を解決する取り組みではない。解決は問題でもある。従って違う言い方をすると問題しか存在しないと言える。解決は問題を解消するものではない。幻聴を通して具体的に考えてみる。幻聴は本来、抗精神病薬を用いて消すべきものに違いない。しかし消す為に抗精神病薬を多く服用すると表情がなくなり、苦悩し考える力が奪われる。当事者研究では幻聴を消そうとせず「幻聴さん」と擬人化して呼び「歓迎する」。幻聴は当事者が無意識に採用している解決である。それと同時に問題である。問題を「それ」として定式化する事は大切な事である。一般には一人暮らし、精神的自立、経済的自立、パチンコで儲ける、年収○○万円、結婚、新車の購入、TOEIC800点の様に問題を定式化する。問題を定式化する事は生きがいを持つ事につながる。幻聴は当事者にとっては問題の定式化である。抗精神病薬で幻聴を消すと薬の副作用によってではなく、幻聴が消えたその事自体によって生きがいを喪失する。その生きがいの喪失に対しても薬で埋めようとするのが現在の日本の精神科医療である。

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